M&A月報 No.233「プミポン・アドゥンヤデート国王陛下崩御」

プミポン・アドゥンヤデート国王陛下が13日午後3時52分(日本時間同5時52分)、崩御されました。享年89歳、王位在位期間70年でした。

崩御を受けてプラユット首相は、新国王に長男のワチラロンコン皇太子殿下が即位すると発表しましたが、皇太子殿下は、「国民と共に哀悼する時間を持ちたい」として、即位を当面遅らせるよう求められました。

正式な即位までは、憲法の規定に基づき、プレム枢密院議長が摂政を務めることになります。

崩御された後の夕刻、直線的な真っ赤な夕焼けの空を多くのタイ国民が見ました。崩御された日も、翌日の病院から王宮への葬送の日も天気が良く、青空が広がっていました。空からプミポン国王陛下が優しい眼差しで微笑んでおられるかのような温かさを感じました。

葬送には、黒色の服を身にまとった大勢のタイ国民が駆けつけました。涙を流し、手を合わせ、祈り、プミポン国王陛下の写真や肖像画を掲げ、そして悲しみに暮れながらプミポン国王陛下を王宮へと見送りました。

これから約1年に渡り、仏教に基づく儀式が王宮で執り行われていきます。またその間、多くのタイ国民が王宮へ弔問に訪れます。

プミポン国王陛下は、「国家の安定と繁栄を導き、国民の暮らしの安定を心から配慮され、社会に貢献する国王」を実践してこられました。国民の暮らしを支え続けるそのお姿が「王室開発プロジェクト」などを通じて、国民ひとり一人と心の絆により結ばれているからこそ、国民が深い敬愛の念を抱き続けているのは皆さんご存知の事だと思います。また、実質、立憲君主制であるにも関わらず軍事政権が長く続く国家の中において、司法や行政、軍部の調停役としての権威強化にも努められました。

プミポン国王陛下が提唱し続けてこられた理念・哲学に「足るを知る経済( Sufficiency Economy )」があります。自らが推進、指導されてこられた「王室開発プロジェクト」は、1952年以降その総数約3,000を超えますが、それらプロジェクトは「足るを知る経済」理念・哲学に基づき、「人間の自立のための開発」を目的とし、地理的・社会的条件を合わせ活かした開発及び持続性を原則として、今も実践され、そして脈々と引き継がれています。

農村におけるプロジェクトの場合、地理的条件とは、地勢の把握と言え、一方、社会的条件とは、その地域独特の文化や生活様式を尊重し、尚且つ、そこで長年に渡り培われてきた歴史ある知恵を活用することと言えます。

プミポン国王陛下は、そこに住む人々と直接対話をされることを大事にされてきました。そうでなければ、人々の本当の考えや思い、真に求めているもの、つまりニーズを発掘・把握することはできません。

農村視察の際、風雨の中をも歩かれ、地図と鉛筆、カメラを片手にそこに住む人々のためご熱心に調査をされては、人々の輪の中に積極的に入って行かれるなど、そのお姿は国民の心に深く焼き付いています。

プミポン国王陛下の「足るを知る経済」理念・哲学は、今となれば世界最先端の理念・哲学であると言えるでしょう。そして、今、 世界がプミポン国王陛下の「足るを知る経済」理念・哲学を見習っています。

経済成長のみを追求する時代は終わりました。国家が自給自足で成り立ち、そして国民が人間として自立する。そのような国家を目指し、実践し続けてこられました。「大地の力・強さ」を意味する「プミポン」という国王陛下のお名前に、これまでの歴史ある全てのプロジェクトの業績が集約されているのです。

1992年の流血事件の事を思い出します。軍部出身の首相と民主化を進めるリーダーが敵対し、その結果、軍とデモ隊が大規模衝突。軍が無差別発砲、多くの死傷者を出し、内戦に向けた一触即発の状態となった矢先、プミポン国王陛下が敵対する彼ら2人のリーダーを呼び寄せ、「ひとつの国ではないか。手を取り合い国家及び国民のため協力しあって欲しい」と諭され、内戦が回避された事件です。

常に国民の目線に立たれ、国民に尽くされ、そしてタイ国家が危機に瀕した時には「いがみ合うのではなく、協調しなければならない」と、国民ひとり一人がお互いに協調し合うことが、タイ国家に平和と繁栄を、そして国民に幸福と喜びを齎すと繰り返し諭されてきました。

以前、ご体調を崩される前は、お誕生日前日に、原稿も無く、長い時は 3時間ほど、延々と国民に話しかけられておりましたが、その内容が博識で慈愛に満ち、そして素晴らしい事に、大いに感銘を受けました。

国民もそのお言葉より多くのことを学び、実践してきました。

プミポン国王陛下にまつわる国王陛下らしいエピソードがあります。

プミポン国王陛下は、夜中に、よくお忍びで、日系小型車をお一人で運転されながら街中をグルグル廻られたそうです。

護衛もつけさせず、交通規制もさせずにです(護衛は密かに同行していたのかもしれませんが)。

それは、ご自分で街中を廻られながら街や人の状況をご自身の眼で観察なされ、今、何が必要なのか?何が問題なのか?どこを開発すべきなのか?

どこを改善すべきなのか?人々は何を求めているのか?等々、ご自身の眼を通じて観察する「街走り調査」によって把握することを目的としており、後で宮殿に専門家をお呼びになられては、証拠をもってするどくご指摘をし、その改善策等をご提案され合意形成をなされてました。

プミポン国王陛下にご指摘されては動かないわけにはいかない、というような状況もあるかもしれませんが、そのご指摘事項や内容がとても理に適っているため、専門家ですら驚くことが多かったようです。

また、それが分かっているからこそ、国民もプミポン国王陛下発案の王室プロジェクトにはすすんで寄付しています。

また、プミポン国王陛下は「電話が非常にお好きであられた」 というお話もあります。

これはプミポン国王陛下自らが一般市民に「突撃無作為的(?)アポなし」御電話をされるもので、聞いたお話の中に「あるお屋敷で働くメイドさんへの御電話の話」というものがありました。

そのお屋敷のご主人がリビングでくつろいでいる中、そこで働くメイドさんはかかってきた電話に対し、約1時間近く対応をされていたそうです。

「メイドが一時間も誰と何を話しているんだ?」と、そのご主人はだんだんとイライラしては「おい!電話が長いぞ!」と、途中、何度もクギを刺しても、一向に電話を切ろうとしないメイド。やがてご主人のそのイライライライラは頂点に達し、はらわたも煮え繰りかえっていました。

やがて、ようやく受話器を置くメイド。電話の主を問い詰めると、なんとそれはプミポン国王陛下だったのです。

プミポン国王陛下は、一般市民の現状をお知りになりたいと御電話されてきたんですね。街の人々の生活や暮らしはどうか?何か不自由はしていないか?人々の中からどんな声をよく聞くか?君の意見はどうか?何か提案や要求はあるか?等々、実にいろいろなことを聞かれたそうです。

プミポン国王陛下は、国民の声を、直接このような「アポなし突撃的御電話」でも聞いておられたという御話です。

おそらく、御電話をかけられる相手は上流階級層のお屋敷だと思うのですが、それにしても、電話に出たメイドさんといろいろ御話される、というその発想や行動力、御人柄・御人徳もすごいですし、また他国ではとても考えられないことだと思います。

また、プミポン国王陛下と老婆と蓮の花の写真をご存知でしょうか。

暑い中、プミポン国王陛下を一目拝見しようと沿道で待っていた100歳を超えた老婆。手に持っていた3本の蓮の花はしおれてしまいましたが、それを目にされたプミポン国王陛下は老婆にお近づきになられ、優しいお顔で微笑まれると、腰を低くされ、老婆の頭にお顔を近づけられ、老婆の手を優しく包まれました。

その時、プミポン国王陛下は全タイ国民の気持ちを両手で受け止められたのだと、今でも語りつくされています。

このような数々のエピソードもあるからこそ、国民のプミポン国王陛下への敬愛の気持ちが益々深まってゆくのでしょうね。

今年の新年、プミポン国王陛下よりお言葉を賜りました。これが、国民に向けた最後のお言葉となりました。

「新年を迎えるにあたって、全てのタイ人の幸福と繁栄と健康を祈る。付け加え、自己の願望が成就することを願う。しかし、我々が生きて行く上で、幸せと不幸せ、成就と失望が背中合わせでいる。従って、全ての人々は、体力的に、精神的に自己を鍛え、物事に対処しなければならない。

そして、決して向こう見ずな行動には出てはいけない。健康に最も留意し、身体を鍛え、良い精神で、いかなる難題にも対処できる意識を持つよう、研鑽に努める事を希望する」。

タイ国家は、まさしく今、ひとつにならなければならない時になりました。あらたな国家の在り方も模索しなければなりません。

タクシン派 VS 反タクシン派の対立の際は、直接、裁定をされることはございませんでしたが、これは、「国民が国家の危機を、自分達で考え、協力、一致団結して乗り越えていきなさい。そしてより良い国家を自分達の手で築いていきなさい」とのプミポン国王陛下からのメッセージ、と受け止めた国民が大勢いました。

目下、全ては政府による良質な統制下にあり、そしてプミポン国王陛下が望まれたように、平和と安定が続けていくものと信じています。

プミポン国王陛下のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

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